青春シンコペーション


第8章 先生、それは誤解です!(3)


その朝、ハンスは酷く不機嫌だった。朝食の時も、誰も口を利こうとしなかった。いつもなら少しでも早くフードをもらおうと騒ぎ立てる猫達も、敏感に気配を察してか、ソファーの影に隠れて寄りつきもしなかった。
今日は井倉や黒木がいないので、朝食の支度は美樹が一人で行った。ハンスも花壇の水やりと猫達の世話をした。

そうして9時を過ぎた頃、最初のドアチャイムが鳴った。
「井倉君が帰って来たのかしら?」
美樹が急いで玄関を開けると、回覧板を持って来た白神の奥さんが立っていた。
「あ、白神さん、おはようございます」
「おはよう。これ回覧板ね」
「ありがとうございます」
美樹がファイルを受け取ってドアを締めようとすると、彼女は強引に中へ足を踏み入れて、家の中を見回してからこそこそと言った。

「今朝、そこで井倉君と会ったのよ。それがね、日比野さんちのしおりちゃんと一緒だったんだけど、ちょっと様子が変だったのよ。それでね、てっきり何かあったんじゃないかと思って来てみたの」
白神は探るような目つきでじろじろと見ている。
「それで、井倉君は……」
美樹がそれとなく訊いた。
「しおりちゃんと高校へ行くとか言ってたけど……。いくら何でも早過ぎる時間じゃない? 何となく気になっちゃって……。何しろ6時ちょい過ぎだったんだもの。ね? 変だと思うでしょ? もしかして、昨夜は日比野さんちに泊まったんじゃないかと思うのよ。ねえ、もしかして、夕べこちらで何かあったんじゃない?」

「いえ、特に何もありませんわ。恐らく姫乃君の学校に署名を届けに行ったんじゃないかと思うんですけど……」
美樹は落ち着いた様子で切り返した。
「ああ、そういえばしおりちゃんがプリントの束を抱えてたわね」
「そう。それですよ、きっと」
美樹が頷く。
「でも、こんな短い期間にあんなに署名って集まるもんかしら?」
「集まったんですよ、それが。うちでもあらゆる方面の知り合いに声を掛けましたし……」
「そうなの?」
「ええ。だからきっとその書類を届けに行ったんだと思います」
美樹は何とかドアを締めようとしていた。が、彼女はなかなか出て行ってくれそうにない。それどころか、無理に身体を差し入れて来て言った。

「それとね、これはおばさんからの忠告なんだけど、あなた気をつけた方がいいわよ」
「え? 何でしょう?」
「ほら、ハンス先生の教え子の何とかって女の子住まわせてるでしょ?」
「ああ、彩香さんのことですか?」
「そう。その彩香さんよ。最近の若い女の子はやたら積極的だって言うじゃない? ハンス先生ってモテるんでしょ? あなただってお仕事持ってるんだし、24時間監視してる訳には行かないでしょうし……」
「あのう、何がおっしゃりたいんですか?」
美樹が怪訝そうに訊く。

「心配してるのよ。あなた、おっとりしてそうだから……。こう言っちゃ何だけど、芸術家の人って、お盛んらしいじゃない? それに、男から見れば、ピチピチした女子大生の方が……」
「ハンスはそんな人じゃありません!」
美樹はついに苛立って言った。
「あ、あら、そう。ごめんなさいね。ついお節介やいちゃって……。でも、ほんとに心配だからこそ言ってるのよ。うち、お隣だし、これも何かの縁だもの。人生の先輩としてね。放っとけないし……」
「それはどうもありがとうございます。でも、これから人が来る予定ですので……」
「あら、ごめんなさい。忙しいとこ、余計な時間を取らしちゃって……」
「それじゃ」
美樹は彼女を追い出すとバタンとドアを閉めた。

「もうっ。失礼しちゃうわ!」
美樹は腹を立てたが、おかげで井倉の所在もわかった。
「ものは考えようか。近所のコミュニティーの情報屋と思えば役立つかも……」
ハンスのことを色眼鏡で見るのは許せないと思ったが、火のないところに煙は立たず、今回のことは多少なりとも彼にも責任があるのだ。
(戻って来るかしら? 彼)
リビングに向かう途中の棚には人形がたくさん並べてあった。
その表情も何故かいつもより憂いを秘めているように見えた。


それから間もなく、フリードリッヒがやって来た。
「グーテン モルゲン! ハンス! 元気だったかい?」
勝手にリビングへ入って来ると言った。
「何しに来た?」
いつになく険悪なムードでハンスが言った。
「何しにって、井倉君のレッスンをしに来たに決まってるじゃないか」
「その井倉なら、もういないよ」
ハンスがむすっとして言う。
「いない? 急用でも出来たのかい?」
「出て行った」
ハンスの手から落ちたリボンを取り合って、猫達が互いを牽制し毛を逆立てている。

「どういうこと?」
「僕が追い出した」
「何故?」
フリードリッヒの問いを無視して、ハンスはリボンを拾うとまた、猫達をじゃらす。
「そんなこと、どうでもいいだろ? もうレッスンしてやる者がいないんだ。帰れよ」
「どんな事情があるのかは知らないけど、ショパンコンクール優勝のこの私のレッスンをすっぽかすとは許せん奴だ。あとでたっぷりお仕置きしないといけないな」
そこへ美樹がコーヒーを入れて持って来た。

「いらっしゃい、ヘル バウメン。よろしかったらどうぞ」
「おお、ダンケ。こうして見ると美樹さん、貴女もなかなか魅力的だ」
「まあ。今更お世辞なんて言わないでくださいな」
そう否定しながらも、彼女はうれしそうだった。
「おい、フリードリッヒ! 美樹ちゃんにちょっかい出したら許さないぞ」
ハンスが睨む。
「何をそんなに苛々してるんだい? 私はほんとのことを言っただけだよ」
そこへ彩香が楽譜を抱えてやって来た。

「ハンス先生、そろそろレッスンの時間ですわ。下へ参りましょ?」
「えーと、あー、今日はここでいいですよ。井倉もいないし、フリードリッヒはすぐに帰るそうですので……」
が、ハンスの言葉に逆らうようにフリードリッヒが言った。
「じゃあ、美樹さん、私達が下へ行きますか? ここでレッスンされては落ち着かないし……。コーヒーを飲みながら、ゆっくりお話でもしませんか?」
「貴様!」
ハンスが怒鳴りつける。
「先生、レッスンは?」
彩香にせっつかれ、彼は渋々下へ行くことを決意した。


それからまた数分もしないうちに黒木がやって来て言った。
「さっきそこで井倉を見掛けたんですが、何かあったんですか? 乗せて行くと声を掛けたのに、逃げるように走って行ってしまって……」
「まあ。それで、井倉君、どんな様子でした?」
美樹が心配そうに訊く。
「何だか妙に思いつめたような……」
そこで彼女は、昨夜の一件を打ち明けた。
「わかりました。まだ、そこらにいるかもしれません。私が探しに行きましょう」
「だったら、わたしも一緒に行きますわ。何だか心配だし……」
黒木に通訳してもらって、フリードリッヒも納得した。

「じゃあ、私達は井倉を探しに出掛けるから、あとはよろしく」
と、黒木が頼む。
「OKです。私はこちらのピアノを借りて練習していますので……」
そして、しばらくの間は彼もピアノに没頭していた。やがてハンス達が地下室から上がって来た。
「大分良くなりました。次はもっとラフに弾けるよう、努力してください」
ハンスが言った。
「ありがとうございました」
そう言うと彼女は満足して二階へ上がった。

「何だ? おまえ一人か? 美樹ちゃんは?」
丁度曲が途切れてページをめくろうとしていたフリードリッヒに声を掛ける。
「ああ。黒木さんと出てったよ。井倉を探しに行くって……」
「……ふーん」
ハンスはソファーに寝ていた黒猫のリッツァを撫でてから時計を見た。
「そうだ。こないだ借りたディスク……」
ハンスはリビングボードに近づくと、リモコンを取り上げ、設置されているレコーダーのイジェクトボタンを操作した。
「あれ?」
そこには見慣れぬ別のディスクが入っていた。
「変だなあ」
ハンスは首を傾げた。

「どうしたんだい?」
フリードリッヒが振り返る。
「僕が入れておいたディスクの代わりに別のディスクが入ってるんだ。今日、返さなきゃならないのに……。これって何のだろう?」
「そのディスクに書いてないのかい?」
「いやな奴だな。僕が日本語読めないの知ってるくせに……」
「怒るなよ。私だって日本語は読めないよ。わからないなら、再生してみればいいじゃないか」
「それもそうだな」
ハンスは再生ボタンを押した。すると、いきなり楽しそうなダンスミュージックが流れて来た。

「お? いいね。レッツ ダンス オン!」
フリードリッヒが椅子から立ち上がってこちらに来た。

――わたし達はただダンスの練習をして……

(ほんとだったんだ)
呆然としている彼の手を取ってフリードリッヒが明るく言った。
「踊らないか? ハンス」
「ふざけるなよ! 今はそういう気分じゃない。第一、何でおまえと踊らなくちゃいけないんだよ?」
「いいじゃないか。あーあ、たまには思いっきりダンスでも踊りたいよ」
「日本にだってホールくらいあるさ。そんなに踊りたきゃ、ホールに行けばいいだろ?」
「美樹さんを誘って?」
「貴様っ!」
ハンスが凄む。そんな彼の肩を掴んでフリードリッヒが笑う。

「へえ。君ってこうして見ると、女性的ないい顔しているんだね。惚れてしまいそうだ」
「馬鹿なことを……! それ以上、くだらないこと言ってると殺すぞ!」
「危ないこと言うなよ。私は純粋にそう思ったから言っただけさ。君ってほんとに可愛いよ」
彼はハンスを抱き締めて唇を寄せた。
「やめろよ! さもないと本当に……!」
ハンスの手がその首に近づく。その爪先に鋭い光が反射している。

「ハンス!」
リビングの入り口に美樹が立っていた。
「あなた達……まさか……」
「美樹……」
フリードリッヒを突き飛ばし、駆け寄ろうとするハンス。
「来ないで!」
美樹が拒む。
「来ないでよ、汚らわしい! 知らなかった……。二人がそういう関係だったなんて……!」
悲痛な顔で彼女が言った。
「違うんだよ、これは……」
「何が違うの? 現にたった今抱き合ってキスしてたじゃない! 嫌いだなんて言っておきながら、実は通じてたなんて……。酷いわ。わたしを騙していたのね!」

「美樹! 誤解だ! 僕達はそういう仲じゃないんだ」
「何が誤解よ! 人のこと疑っておきながら……。それって自分がそういうこと隠してたからじゃないの? だからそんな風に……!」
「やめてよ、美樹ちゃん。違うんだ。これはほんとに……」
「わたしのこと愛してるって言ったのに……!」
彼女は外へ飛び出して行った。
「待って! 行かないで! お願いだよ、美樹! 戻って来て!」
ハンスもそのあとを追って駆け出した。

リビングでは、猫達が呆然として彼らが出て行った方を見つめていた。フリードリッヒはピアノの前で腕組みをし、テレビではレオタード姿の講師がダンスのレッスンを進めている。
「ちょっと刺激が強過ぎましたか?」
彼らと入れ替わるように入って来た黒木に、フリードリッヒが訊いた。
「私はキスしろとまでは言ってないからね」
教授が呆れる。
「ははは。ジョークですよ」
フリードリッヒがからりと笑う。
「とてもそうとは思えなかったがね」

「まあ……。彼は本当に女性的ではありますよ。この間のドレス姿は胸に刺さるものがありました」
黒木は苦渋の表情で言った。
「わかった。私も次からは頼む相手を間違えないように気をつけよう」
そうして、黒木も玄関を出て行った。
「オー、マイン ゴット! 私の罪を許し給え」
一人残ったフリードリッヒはピアノと猫達に向かって懺悔した。


その頃、井倉は街の中を彷徨っていた。
(どうしよう。行く宛てもないし……。歩いて何処まで行けるかな?)
誰かを頼ろうにも、この街にいるのは皆、ハンスの知り合いばかりだ。
「おーい!」
遠くで誰かが呼んでいた。
「おーい!」
子どもの声だ。
「おーい! こっちだよ」
自分ではないと思いながらも振り向くと、幼稚園の制服を着た遥が駆けて来た。

「井倉の兄ちゃん、こんなところで何してるの?」
「え? 何って別に……」
「ははん。泣いてたんだろ? 目、赤いもん」
「違うよ」
井倉は慌てて否定する。
「ごまかさなくたっていいよ。大人にだって泣きたいことくらいあるの、おれ、ちゃんと知ってんだ」
「生意気言うなよ」
井倉が苦笑する。

「ほら、これ、やるから元気出せよ」
小さな手の握りこぶしを開くとキャンディーが二つ出て来た。
「元気が出るキャンディーだぞ」
アニメのキャラクターが付いているそれは、子ども達に人気のお菓子だった。
「ありがと。じゃあ、一つだけもらうよ」
井倉が言うと遥は二つともその手に押し付けて言った。
「いいよ。おれ、もう十分過ぎるくらい元気だから……おまえにやる」
「遥君……」
「でも、何で泣いてたの? ハンスに叱られたのか? そんなら、早く謝った方がいいよ。あいつ、やさしそうに見えるけど、怒ると怖いんだから……」
「そうだね。やっぱり僕が謝った方がいいのかな?」

「謝ればちゃんと許してくれるよ。けど、謝らないと、いつまでも怖い顔してるんだ。他の子にはわからないんだけど、おれにだけわかるようにね。けど、たまにはハンスの方が間違うことだってあるよ」
「そんな時はどうするの?」
「ハンスが謝る」
遥は即答した。
「そうか」
「大人ってずるいから、自分が間違ってても謝ってくれない奴が多いけど、ハンスはちゃんと謝るよ。だからさ、お兄ちゃんも素直になった方がいいよ」
「素直にか……。そうだね」
向こうで遥の母親が呼んでいた。

「じゃ、おれ、行かなくちゃ……。バイバイ!」
「バイバイ!」
手の中に残ったキャンディーを見つめていると、井倉は少し気持ちが和んだ。
「元気が出るキャンディーか」
井倉は包み紙を開くとレモン色のそれを口に含んだ。甘酸っぱい味が口の中いっぱいに広がって行く。
「なるほど。元気が出たみたいだ」
そう言うと、残ったキャンディーをポケットに突っ込み、再び歩き出した。その時。

「お兄ちゃん!」
女の子の声が聞こえた。甘ったるいその声には聞き覚えがあった。
(栗田さんだ)
井倉は少し身構えて振り返った。思った通り、それは彼女だった。が、栗田は井倉を無視して道の向こう側へ駆けて行った。
「ごめんね、お兄ちゃん、待った?」
彼女の甲高い声が道のこちら側まで響いている。
「僕も今来たところだよ」
相手の男が応えた。そちらも爽やかでよく通る声をしていた。
「わあ! よかった。広美、楽しみにしてたんだ。お兄ちゃんと一緒にお子様ランチ食べに行くの」
彼女はうれしそうに腕を組んで歩いた。

(あの二人、付き合ってたんだ)
相手の男は声優の春那だった。しかも、二人はあのお子様ランチレストランへ行くつもりらしい。
(彼女って、相手は誰でもよかったのかな? それとも、どうでもよかったのは僕だけのこと?)
はしゃぎながら遠ざかって行く二人の姿を見ていると、井倉はどうしようもなく侘しくなった。
(そうだよね。どうせ僕なんかどうでもいい存在なんだ。いてもいなくても代わりない。大学にとっても、家族にとっても、そして、彩香さんやハンス先生にとっても……。僕がいなくても世界は何も変わらない)
「そうだよ。僕一人いなくても誰も困ったりしないんだ」
思わず、そう声に出して言った。

「確かにな」
背後でそんな声が聞こえた。振り向くと、いつか絡んで来た街のチンピラの二人連れが意味あり気にこちらを見ていた。
「へへ。こないだはとんだ邪魔が入ったからな」
「そうですよ。おかげで兄貴の尻に傷ができちまったんだ。落とし前はつけてもらうからな、ガキ」
「そうさ。治療費が10万。それに精神的苦痛を受けた慰謝料として20万。併せて30万、払ってもらおうじゃないか」
「そんな……。僕は何もしてないし、何故、あんたの治療費を払わなくちゃいけないんですか?」
井倉が言った。

「おーおー、忘れたってんじゃねえだろうな? こないだ、兄貴がベビーカーにハマって尻に怪我したってえことを……」
「でも、あれは僕がやったんじゃないし……。僕は今、お金持っていませんから……」
「金持ってねえだと? ふざけんなよ!」
「だったらあるところから盗ってくればいいだろ? 俺達はいつまででも待ってるぜ」
「でも、本当なんです。帰る家もないし……」
「家がないだって? 嘘言うと半殺しの目に合わせるぞ!」
「でも、ほんとに……」
井倉は懸命に言い訳した。が、彼らは強引に井倉を人目のつかない工事現場へと連れて行った。

「何をするんですか!」
「金が払えねえならちと痛い目に合ってもらわねえとな」
「こちとらの気持ちが済まねえって訳よ」
下っ端の男が井倉を捕まえ、腕を抑えた。
「や、やめろ!」
何とか逃れようとするが、相手の方が腕力は上だ。
「本当に持ってないかボディーチェックしてやるぜ」
男はポケットに入っている物を確認すると、ペッと唾を吐き掛けた。
「ちっ! しけてやがるぜ。出て来たのは飴玉1個か」

「だから、言ったじゃないか。持ってないって……」
井倉が言った。
「へっ! それじゃ済まねえんだよ!」
男は井倉の顔面と腹を殴りつけて言った。
「俺達は苛立ってるんだ。せっかく手に入りそうだった金の山がおじゃんになっちまってな」
「そうだ! いきなり妙な探偵だとか国際警察とかがしゃしゃり出て来やがって……」
(それって飴井さん達のことかな?)
井倉は思った。が、間髪入れずに殴られ、道路に倒れた。

「ウウッ!」
立ち上がろうとして手を突いたその時、醜悪な笑みを浮かべて男が言った。
「そういやおまえ、ピアニスト目指してんだってな? へへ、そんじゃあ、その大事なおててで払ってもらおうか?」
「な……!」
靴底に金属が光って見えた。その靴で踏みつけようとする。
「やめろ! 頼むからそれだけは……」
「黙れっ!」
もう一人の男が彼を抑える。
(指が……)
男はわざとゆっくりとした動作で井倉の手に靴を乗せた。

その時。
「それ以上やってみろ。貴様の頭も粉々になるぞ!」
背後から低い声が響いた。
「な……!」
こめかみに押し付けられた銃口の冷たさに、男は硬直した。
「わかったら、その薄汚い泥靴をどけろ!」
「き、貴様はあの時の……」
「ハンス先生」
その顔を見て、井倉は何故だかひどく安堵した。

「どうやらおまえはベビーカーごとスクラップになりたかったようだな。何なら、リクエストに応えてやってもいいんだぜ」
男の耳元でカチカチとトリガーを引く動作をする。
「い、いえ、結構です!」
悲鳴のように細い声で男が言った。
「ならば、プレゼントをやろう」
そう言うとハンスは男の首に先端の尖った針のような物を刺した。
「ヒェっ!」
苦痛に顔を歪め、そこに手を当てて確かめようとする。その手を掴んでハンスが言った。

「抜くなよ? そいつは今、動脈を貫通しているからな」
「何?」
男は動揺し、目が泳いでいた。
「抜けば動脈から血が吹き出て、あっと言う間に出血多量で死ぬ。命が惜しければ、なるべく刺激しないように病院へ行って抜いてもらうことだ」
「そ、そうっとしてれば大丈夫なんだな?」
男が念を押す。
「ああ。だが、今度、こいつの周りをうろついたら、間違いなく命はないと思え! わかったな?」

「あ、ああ。もう二度とこいつの周りをうろつくような真似はしねえよ! だから、どうかお許しを……!」
「いいだろう。じゃあ、せいぜい気をつけて病院へ行けよ。到着するまで無事だとは保証できないからな」
「わ、わかった。だから……。頼むからその銃をしまってくれ」
「いいだろう。でも、せっかくだから足癖の悪いおまえの足に一発お見舞いしておくってのもいいよね」
「や、やめてくれ! 頼む! この通りだから……。そんなことしたら、頸動脈が……」
男が喚く。

「失せろ!」
そう言うとハンスはようやく銃をポケットに収めた。男達はヒイヒイ言いながらそこを逃げ出して行った。
「ふん。これで連中も凝りたでしょう」
ハンスは澄まして言った。
「せ、先生……」
井倉が泣きそうな顔で彼を見上げた。

「井倉君、怪我はありませんか?」
「はい。大丈夫です」
彼は立ち上がると目に涙を貯めた。
「それはよかった」
ハンスが微笑む。
「本当にありがとうございました」
「いいえ。お礼は入りません。それよりも……」

いきなりハンスは膝を折り、両手をついて頭を下げた。
「先生!」
驚いた井倉が叫ぶ。
「僕は間違えました。君と美樹のこと、誤解してとても悪い言葉使いました。本当にごめんなさい。僕を許してください」
「先生! やめてください。そんな……。僕は怒ってなんかいませんから……。本当に怒ってなんか……」
井倉の目から涙が溢れた。
「本当に……? 僕を許してくれますか?」
「もちろんです」
「それじゃあ、また家に戻って来てくれますか?」
「はい」
それを聞くと、ハンスはようやく顔を上げた。

「僕の方こそ申し訳ありませんでした。僕がもっと注意していれば、変な誤解なんか起きずに……」
「井倉君のせいじゃないわよ」
ビルの影から現れた美樹が言った。
「はい。その通りです。井倉君は何も悪いことなかったです」
ハンスが言った。
「これでいいですか? 美樹」
ハンスが振り向く。
「そうね。井倉君の1件はこれで解決ね。でも、フリードリッヒのことはまだ許していませんから……」
「だから、それこそが誤解なんです。奴と僕とは何の関係もないですから……」
ハンスが必死に言い訳する。

「何なんですか? ヘル バウメンが何か?」
井倉が訊いた。
「それがね、ハンスってば、彼と抱き合って、キスまでしてたのよ」
「キス?」
井倉が唖然として師匠を見た。
「だから、それ違いますって……もうっ。あいつは出入り禁止にします。僕を信じて」
美樹の周りを何度も往復しながら言う。
「じゃあ、フリードリッヒ本人にもじっくり事情聴取しないとね」
そう言って、美樹がくすっと笑ったので、ハンスも安心して言った。
「では、井倉君、帰りましょう」

場が少し和やかな雰囲気になったところで井倉が訊いた。
「ところで先生、さっきのあれって本当なんですか?」
「さっきのって?」
「あのチンピラの首に刺した……」
「あはは。あれはただの旗です」
「旗?」
「ほら、これと同じお子様ランチの……」
ハンスがポケットから旗を出して見せた。
「でも、そんなので動脈が貫けるものなんですか?」
「ないですよ。抜けない程度に深く刺しただけです」
「よかった……」
井倉がほっとしたような顔で言う。

「あんな奴、実際に始末したってよかったんですよ」
ハンスの言葉は乾いていた。が、井倉は首を横に振って否定した。
「駄目ですよ。僕は人が死ぬの怖いです。だから、あまり恐ろしいことを言わないでください。僕の心臓が持ちませんから……」
「そう……ですね」
ハンスは黙って空を見つめていた。頭上を横切って行く鳥の影が過ぎる。
「あ、そうだ。井倉君、コンビニでアイス買って帰りましょう!」
不意にそう言って駆け出したハンスの後姿に真夏の太陽がきらりと反射して一瞬だけ虹が煌めいて見えた。